哲学者 スピノザ

啓発

スピノザとは

17世紀ヨーロッパ。オランダの哲学者である。
ユダヤ人の家系で、小さいころからユダヤ教団の律法学院で勉強した。
だが成人してユダヤ人のコミュニティから追放されている。

聖書は真理など教えていない?

スピノザは聖書は真理などを教えていない。ただ服従を教えているだけだと断言する。
だからこそ聖書は神聖であって、聖書の威厳を台無しにするあらゆる試みから「神の言葉を守るつもり」だ。と言っている。
否定をしているようで聖書の威厳を守ろうとしているように見える。

考える自由は敬虔も平和も損ねない

考える自由を抑圧すると敬虔と平和まで破壊してしまう。と言う。
なぜかというと、判断の自由と髪を自らの思うとおりに礼拝する自由とが各人に完全に許容されている共和国に、自由が何ものにもまして貴重で心地よいと思われている共和国に生活するという稀な幸せにめぐまれているのだから、この自由は敬虔と共和国の平和とを損なうことなしに許容されうるということ、のみならずこの自由が除去されれば共和国の平和と敬虔も同時に除去されざるを得ないということを私が示すとしても、恩知らずで無益なことになりはしないと信じた。
ほかならぬ聖書そのものを根拠に証明したのである。

真理は不可解なところにこそ隠れている?

人は謎めいて不可解なところにこそ心理が隠されていると思いたがる。その中でもタイプAとBがある。とスピノザはコメントしている。

タイプA:「自然的な光」(理性)ではだめだ、「超自然的な光」に寄らないと聖書は解読できないと言い出す。普通に考えても理解できないからすごい真理なのだというわけである。

タイプB:非合理をなるだけ避けたい。聖書はそのままでは矛盾したことを言っているように見える箇所がたくさんあるので、そういうところは理性でわかるように比喩的に解釈する。さもないと聖書は何を言っているのか意味不明な非合理的な書物になってしまう。と考える。

「神学・政治論」の問題提起

聖書はそもそも、神がどんな存在でいかなる風に働いているかといった「事柄の真理」を教えようとしているのだろうか?むしろ聖書はそんな思弁的なしんりなどぜんぜん知らないで、しかも何かを正しく語っている、そう考えるべきではないか?これが問題提起だった。

スピノザの聖書解釈の基本

聖書解釈で一番大事なのは、性急に「真理」をよみとろうとしてはならないということだ。
聖書が語っている「意味」を真理と混合しないこと。
そしてスピノザは預言者たちの言っていることが聞いている人々にちゃんとコミュニケートされえたならそれは何を語っていなけれあならなかったかと考える。

預言者は何を語り得たのか

預言単なる演説や説法ではない。預言者たちは自分に神の言葉が臨んだと信じたし、人々もまたそう信じた。「神は言われる」と始まっていきなり髪を一人称にして語る語り方に、そのことは示されている。
ある発話が、これは神の言葉であると本人にも聞き手にも確信されるような仕方で、一回的かつ決定的な言語行為として成立するには、どんな条件がそろっていなければならなかったか?スピノザは次の3つをあげた。
1.預言者の生き生きとしたイマジネーション
2.預言者に神から与えられる徴
3.正しいこと・良いことのみに向けられた預言者の心

スピノザは真理を語っていなければ聖書でないという同時代人の大前提を解除してしまっているのだ。

神学と哲学の分離

哲学の目的は基本的に真理のみであり、これに反して信仰の目的は、これまで十分示したように、
服従と敬虔以外の何ものでもない。
哲学者は共通概念を基礎としもっぱら自然からのみ導きだされねばならないが、これと反対に信仰は、物語と言語を基礎としもっぱら聖書と啓示とからの導きだされねばならない。

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